@misc{oai:niigata-u.repo.nii.ac.jp:00004953, author = {後藤, 康志}, month = {Mar}, note = {本研究の目的は、従来経験的に記述されてきたメディア・リテラシーについて構成要素を操作的に定義し、測定するための尺度を作成し、実証的データを得てその発達的特性と構造を検討することにある。メディア・リテラシーの定義は多様であるが、本研究では「多様な情報メディアの特性を踏まえ、それらを情報の受信と発信に主体的に活用するとともに、情報を鵜呑みにすることなく批判的に捉えようとする態度及び能力」と捉え、そのような態度及び能力の獲得を目指す教育活動をメディア・リテラシー教育実践と呼ぶ。高度情報通信社会の到来に伴い、メディアを使いこなし情報を適切に収集し判断する力量を育成することが求められている。メディア・リテラシーはそうした状況に対処するための力量として捉えられることが多い。筆者はこのようにメディア・リテラシーの力量としての側面を強調する立場をとらない。というのは、人は自らとメディアとの関係を主体的に構成する存在であると考え、メディア・リテラシーを態度やメディアに対する知覚を含めたより広い概念として捉えたいからである。メディアは多様化し様々なメディアが利用可能な状況になっている。テレビが登場しても映画はなくならなかったし、インターネットが普及しても新聞もテレビも残っている。メディアが多様化し様々な情報を得ることができる時代にあって、人がメディアをどう使い、そこからどういう情報を得るかの選択肢は無限にある。その選択権をもつのは自分自身であるとすれば、メディア・リテラシーとは、つまるところその人が「どう生きたいのか」に関わる問題である。このように考えるに至った経緯は、筆者の修士論文まで遡る。筆者の修士論文は「ハイパーメディアの教育利用に関する研究」である。このハイパーメディア・システムは、利用することにより学習者の疑問が解消するとともに、発展的な新たな課題が生まれるべくデザインされていた。ハイパーメディアは、その中で自己完結するメディアとしてではなく、直接体験を含む各種メディアによる発展的学習へ飛び出すゲートウェイとして位置づけられていた。教師から子どもへ情報を一方的に注入する一斉指導スタイルを抜け出し、子ども自身が情報を求め、メディアを使いこなすことを目指したのである。修士論文作成後、筆者は小学校の教育現場に復帰してこのような学習の実現を目指して実践を重ねてきた。子どもがメディアを主体的に活用して問題を解決する学習の実現に取り組む中で、子どもがメディアの特性を把握して使い分けていく姿を見てきた。小学生なりにも子どもはメディアに主体的に働きかけたり、自分の経験に基づいてメディアを選択したりしているのである。筆者のメディア・リテラシーを能力や態度、メディア観を含めたものとして見る見方は、筆者に限ったものではない。, 例えばPotter(2001,2004)はメディア・リテラシーを単なる能力ではなく、感性や態度を含むものとして捉えている。ドイツにおいても同様である(生田・赤堀2001)。山内(2003a,2003b)は、我が国ではリテラシー=読み書き能力という側面が強調されるあまり、メディア・リテラシーが「メディアの読み書き能力」、つまりはメディアをいかに操るかという「見える学力」、「伝達可能な知識」として矮小化されていると指摘する。このような見解は、Potter や山内だけではない。メディア・リテラシーの定義は研究者や実践の数だけあるといっていいほど多様であるが、これらは完成品としての望ましい姿、最終目標となる理想型を記述しているに過ぎない。そこに至る道筋は示してくれない。メディア・リテラシー教育実践の報告は事例のエピソードで終わるものが多く、構成要素を操作的に定義し、それらがどう変容したかの情報を与えてはくれない。このため、メディア・リテラシー教育実践は学習者の実態から出発するのではなく、教師の意図から出発することとなる。連合王国のメディア教育の権威バッキンガム(Buckingham 2003:176)は、メディア・リテラシー教育実践において必要なこととして「学習者が何を知っているか、そして学習者は何を知らなくてはならないか」の把握を挙げる。バッキンガムによればメディア・リテラシー教育実践には「子どもを白紙として捉えている」ものが多い。子どもは決して白紙ではない。豊富なメディア経験を有し、メディアに対する見方や知覚を有している。子どもを「今もっている力量や態度、知覚に基づいてメディアとの関係を主体的に構成する存在」と考えれば、1人1人のメディア・リテラシーが今いかなる段階にあるかが重要であるはずだ。さらに、メディア・リテラシーがどう発達するのかという「発達への問い」を問いかけ続けることが必要なはずである。メディア・リテラシーの発達を問うことは、メディア・リテラシーとは何か、人がメディアとの関係を取り結ぶとは何かを問うことに他ならない。このような問いに答えるためには、メディア・リテラシーを操作的に定義し、測定可能な形に組み替えていく必要がある。これらを受けて、本研究ではメディア・リテラシーの構成要素の抽出と尺度作成、作成した尺度を用いたメディア・リテラシーの発達的な特性と構造の検討を課題とする。それぞれの課題にいかにアプローチするかは、以下に示す。メディア・リテラシーの構成要素をいかにして操作的に定義するかが問題である。前述のようにメディア・リテラシーの定義は抽象的なものが多く、最終的な理想が述べられているに過ぎないからだ。能力的な面を強調するあまり、コンピュータの操作スキルのような目に見える力量として単純化している定義も多い。このような状況で定義を中心に構成要素の抽出を行っても、現状におけるメディア・リテラシー研究・実践者の願望を集約するだけになってしまうだろう。そこで、内外のメディア・リテラシー教育実践を幅広く集め、その中でメディア・リテラシーのいかなる面が強調されているかをまず浮き彫りにする。, 実践は実態を踏まえたものであり、実践の中にこそメディア・リテラシーの構成要素が含まれていると考えるからである。メディア・リテラシー教育実践を踏まえた上で定義の整理を行い、メディア・リテラシーの構成要素を抽出する。構成要素を抽出した後、それを測定するための尺度を作成する必要がある。心理学研究における尺度作成の手法を生かし、信頼性・妥当性の高い尺度を作成することが課題である。メディア・リテラシーに関する既存の尺度は、信頼性・妥当性の点で問題のあるものが多い。対象年齢も成人向けが多い。このため尺度を新たに作成する必要がある。心理学研究の尺度作成では先行研究をベースに項目を作成し、予備調査により項目分析や信頼性・妥当性の検討を行い、尺度を洗練させる手法をとる。本研究でもこの手続きを踏襲するが、作成しようとする尺度の先行研究は乏しい。このため場合によっては予備調査を繰り返したり、対象を絞ったりして尺度を精緻化させていく。また、作成した尺度の妥当性については、先行研究で明らかになっている構成要素間の関係(例えばメディアの操作スキルと主体的な態度の関係など)や筆者自身のメディアに対する先有知覚研究の知見などを動員し、多角的に検討を加える。尺度作成にあたっては質的データの活用も心がける。測定しようとするメディア・リテラシーは、実際の場面で発揮される能力である。このため、被験者に具体的な場面設定を行い、そこでどう対応するかについての自由記述を求め、質的に検討する必要がある。メディア・リテラシーの発達的な特徴の検討にあたってはデータを多角的に解析する必要がある。本研究ではメディア・リテラシーの発達を構成要素の尺度得点が向上することに限定して捉え、学年発達毎の平均点の分散分析と事後検定を行う。発達的な特徴としては、抽出した構成要素が一様に発達するのか、発達にある種の断層があるのかを検討することが課題となる。構成要素の尺度得点は、学年発達と伴って向上するのであろうか。それぞれの構成要素が一様に発達するのか、それともある構成要素は早期に、別の構成要素は遅れてといった具合にばらつきながら発達するのであろうか。また、ある学年から次の学年には大きな差があるといった具合に、発達には学年間の断層はあるのだろうか。これらの点を明らかにするために、尺度得点のみの差を検討するのではなく、個々の項目に立ち返ってその差を検討していく。こうした構成要素間の関係はどうなっているのだろうか。前述のように、先行研究においては本研究で採り上げる構成要素間の関係についての知見がいくつか得られている。また、数多くあるメディア・リテラシーの定義も構成要素間の関係を前提としているものがある。しかし、これらはメディア・リテラシーを態度やメディアに対する知覚を含めたより広い概念として捉える立場からみれば、構成要素間の関係の一部に過ぎない。先行研究を踏まえたモデルを構成した上で構成要素全体の関係を検討する必要があるが、従来行われているような相関分析では限界がある。そこで構造方程式モデルを利用する。, 構造方程式モデルは潜在変数間の関係を推定するのに適した手法である。本研究は構成要素間の関係に関する仮説を検証するというよりも、探索的に関係を検討する段階にある。こうした状況下で、探索的なモデルを新たなデータに基づいて発展できる構造方程式モデルは都合がよい。構造方程式モデルを用いて、人がメディアとの関係を築くとき、態度やメディアに対する知覚はいかに関係しているのかの知見を提出したい。本研究は、メディア・リテラシーの発達への問いに対して上記のようなアプローチで答えていくことを目指す。こうしたメディア・リテラシーへの問いは、従来からあるリテラシーや教育にとっていかなる意義があるのだろうか。メディア・リテラシーの上位概念であるリテラシーについても分かっていないことが多い。リテラシーは文字の読み書きだけではない。森田(2005)によれば今日にいたるまで実は、識字とは何か(従って識字困難とは何か)という定義について、一貫した見解は存在しない。リテラシーの定義は「文字に対する多様な期待の数だけ存在するとさえ言える(森田2005:47)」のである。メディア・リテラシーの発達を問うことは、メディア・リテラシーとは何なのかを問うことに等しい。メディア・リテラシーとは何かを問うことで、リテラシーとは何なのかを問うことができるのか。言い換えると、メディア・リテラシーの発達を検討することで、リテラシーを再定義することは可能になるのだろうか。最後に、本研究の限界について3点、述べておきたい。第一に、本研究は探索的研究の段階にある、ということである。メディア・リテラシーの発達についてはほとんど先行研究がない。特にメディアに対する批判的思考については信頼性・妥当性を検討した測定さえも行われてこなかった。メディア・リテラシーの調査には、メディア環境や学習経験など統制できない要因が多い。このため本研究は学年間比較の段階であり、発達的研究の第一歩に位置付く。メディア・リテラシーの発達を明らかにするためには、本研究を批判的に乗り越えたさらなる調査研究が必要になる。第二に、メディア・リテラシーの重要な側面である表現・発信についてである。子どものメディア活動は、受信・発信が相まっている(生田2000a, 山内・水越2000)。受信のみならず発信におけるメディア・リテラシーが重要なことは間違いない。しかし、メディア・リテラシーの発達を一事例として記述するならともかく、実証的データとして把握するには、受信・発信の両方を扱うことは一つの研究では困難である。そこで本研究では、メディアによる情報受信に焦点化してメディア・リテラシーを捉えており、発信については言及していない。今後、発信についても発達的な問いを立てて検討する必要がある。第三に、質問紙法による調査の限界である。本研究ではメディア・リテラシーの発達差があると考えられる10 才頃から20 才頃までを対象とし、同一の質問紙による調査を行っている。このため、問題作成には大きな制約があった。一つ一つの構成要素についてその測定を精緻化させ、尺度を洗練していく必要がある。, 新大院博(学)甲第53号}, title = {メディア・リテラシーの発達と構造に関する研究}, year = {2007} }