@article{oai:niigata-u.repo.nii.ac.jp:00033855, author = {Ishihara, Aeka}, issue = {11}, journal = {19世紀学研究}, month = {Mar}, note = {1911年、ドイツ・ドレスデンで開催された国際衛生博覧会に日本は初参加した。この時、日本館の陣頭指揮を執った責任者は、北里柴三郎の高弟で寄生虫学者の宮島幹之助(1872-1955)、同敷地内での台湾館展示責任者も、同門の高木友枝(1858-1943)だった。日本医学の威信をかけた展示を成功させるためには、むろん研究者だけでなく、陰で彼らを支える人々も必要だった。当時、致死率の高い謎の病として新潟・阿賀野川流域でも問題になっていたツツガムシ病の調査を、文字通り命賭けでサポートした沼田仁吉(1884-1971)という人物がいる。実験動物の世話が好きで誠実な沼田は、宮島の信頼を得て、ドレスデンに同行し、生来の手先の器用さで展示準備に貢献した。しかも博覧会終了後、沼田は衛生・医学展示に不可欠になっていた蝋製標本技術を修得するため、単身ドイツに残り、第一次大戦勃発により強制送還されるまで、その技に磨きをかけたのだった。実はこの蝋製標本の医学分野における効用にいち早く注目したひとりが、ドイツ詩人のゲーテ(1749-1832)である。彼が活躍した1800年前後に、新しい医学分野である皮膚科・性病科学が成立した。刻々と変化する皮膚の病を正確に把握し、記憶するため、各地で最初は精緻な二次元絵画が重用された。続いて蝋を用い、まるで生きているような彩色を施した三次元の立体表現、すなわち「ムラージュ」の技法が生み出され、発展した。ゲーテの後期長編小説『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』にも、当時黎明期にあったムラージュについての言及が見いだせる。もっともこの技術をさらに普及させるべきだというゲーテの提案は、20世紀初頭にようやく現実味を帯びた。皮膚科学の中心拠点オーストリア・ウィーン大学でカポシ(1837-1902)に師事した土肥慶蔵(1866-1931)を通して、この当時最先端の皮膚科学とムラージュ技法を日本は受容したのだった。執筆者は日・独双方の歴史的皮膚科学コレクションに注目し、5年近くかけて、日本国内の、おもに旧帝国大学と幾つかの私大医学部皮膚科学教室が所蔵する図譜や標本を中心に調査・記録してきた。本論では、ドイツ語圏由来の近代皮膚科学が、どうやって日本に根をおろし、図版や標本製作技術を自家薬篭中のものにしながら普及・発展・衰退したのか、また土肥と名コンビを組んだ「日本のムラージュの父」こと名匠・伊藤有(1864-1934)を起点とする日本のムラージュ師の系譜、そして各大学が所蔵するムラージュの歴史について具体例を挙げながら検証する。また最後に管理・継承の問題も提起する。}, pages = {25--37}, title = {Der Austausch zwischen Deutschland und Japan auf dem Gebiet der Medizin am Beispiel der IHA Dresden 1911 und der Moulagentechnik}, year = {2017} }